2017年8月12日土曜日

シンポジウム:Focusing on the narrative self in human sciences

帰国後のISTPでの発表を準備しています。今日はとりあえず25日午前の以下のシンポジウムの準備。

8/25 11:00-12:30  Room A1203
[Symposium 34]
  Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
  Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
  Ken Nishi (Tokyo Medical University)

タイトルを日本語にすると「人間科学におけるナラティヴ・セルフを焦点化する」と、ちょっとぎこちなくなってしまいますが、趣旨はこういうことです。
 
心理・教育・福祉・看護など、対人支援領域での質的研究においてナラティヴ・アプローチは重要な位置を占めています。ただ、理論的には問題も多くあります。本人の語りを重視するといっても、インタビューを受ける側の研究参加者の観点はもともと研究者の観点とは異なりますから、研究者が理解できることにはおのずと制約があるかもしれません。一方、インタビューを深いものにしてナラティヴを分厚いものにすれば、その分だけ理解が深まったとしてもデータは参加者と研究者の共同作業の産物になり、妥当性の確保が難しくなっていきます(別の研究者が同じ題材に取り組んでも、まったく違う記述になる可能性があります)。また、ナラティヴが聞き手の前での語りだとすると、聞き手が変わると内容が変わってしまったり、聞き手の態度や関心によって語りの内容が変化したりといった問題もあります。
 
なので、エビデンス・ベースでないアプローチであることに由来するさまざまな理論的問題がナラティヴ・アプローチには内在しているのですが、それをポジティヴに解消する手立てとして「ナラティヴ・セルフ」というキーワードを立ててみてはどうか、というのが今回のシンポの趣旨です。ナラティヴだけではなく、研究参加者のナラティヴ・セルフまで迫ることができれば、研究者の側の恣意性を超えて、より一貫性と妥当性をもってナラティヴを理解する手がかりが得られるのでは、という提案になっています。(ちなみにエビデンス・ベースのアプローチにはそれ固有の理論的な問題点が多々ありますので、誤解なきよう)。
 
パネリストの植田先生と能智先生が事前に報告内容のレジュメを送ってくれたのですが、それを見ていて興味深いことに気づきました。お二人とも、ナラティヴの理解が研究者の側の主観に引きずられないよう、いかにして研究参加者を正確に理解できるかという問題意識を追求しているのですが、そのさい、参加者の身体、語りの裏にある沈黙、情動など、いわば「当事者の実存」に着目しているのです。
 
つまり、シンポはさしあたり「ナラティヴ・セルフ」を提案するものなのですが、二人ともそれを少し超える場所を指向しているようなのです。「ナラティヴ・セルフ」は、本人のライフストーリーを背景にして構成されているアイデンティティですから、基本的には「物語の形式で語られた自己」であり、「語りうる自己」です。対して、とくに能智先生は写真に映ったある男性の身体を時系列で追うことで「語り以前の語り」を読み解こうとしていて、まさに当人の実存に迫ろうとしています。
 
私もこのシンポの準備をしていて「ナラティヴ・セルフ」の概念の歴史をたどり直しながら考えたのですが、ライフストーリーとしてのナラティヴはある観点から人生を俯瞰したときに紡ぎ出される物語であって、「ある観点」それ自体は物語のなかに登場してきません。ここでいう「ある観点」とは、語りを紡ぎ出している現在の時点で、身体を通じて私が生きているところの、世界との関わりです。
 
これは、ハイデガー風に「気分」と言ってもいいかもしれませんし、ジェンドリンのように「フェルトセンス」と言ってもいいかもしれませんが、「暗にそう感じてしまっているもの」なので、語り全体を脚色するものでありながら、はっきりと言語化されて語りのなかに表出しません。いわば、語りを支える語り手そのもののスタンスなので、これが語りのなかに盛り込まれれば物語全体のフレームが変化してしまうはずのものです。実人生でそのようにナラティヴが変化すれば、当人の生き方そのものが変わってしまうことでしょう。
 
いずれにしても、ナラティヴを問うていくと、その向こう側にある語り手の実存を問う必要がありそうなのですが、三人ともそれぞれのしかたでそういう深い問題意識を共有しているようです。西先生の指定討論でどんなコメントが出てくるかも含めて、当日の議論を楽しみにしています。